2009年2月21日土曜日

現代の宝くじ

宝くじ登場

天保の改革以来、すっかり姿を消してしまった富くじ。

その後、こうした金銭授受に絡む「くじ」が発行されたのが、何と昭和20年になってからの事です。


昭和20年7月当時の日本では、配線色が濃くなり物資が圧倒的に不足していました。

そこで当時の政府は、軍事費調達の為、富くじ“勝札”を発売しました。
一枚10円(今の価格で約で一等が10万円だったそうです。

ところが当選前に終戦を迎えてしまったため、負札という蔑称を与えられる始末・・・
また物資不足により、物資不足のため、副賞のタバコやカナキンが貴重品として
もてはやされたそうです。


今の宝くじの原型となる政府発行の宝くじが発行されるのが、昭和20年10月からです。

さらに戦災で荒廃した地方自治体の復興策として、独自で宝くじを発売できることとなりました。

昭和21年12月に地方くじ第1号「福井県復興宝くじ」(別名ふくふく籤)が登場したのです。

政府くじは昭和29年に廃止され、地方自治体の地方くじのみとなりましたが
より規模が大きく、賞金も魅力的な宝くじを販売するための地方くじの統廃合が行われ、
昭和34年には「全国自治宝くじ」・「東京都宝くじ」などの5つの宝くじの原型が
出来る事になったのです。


昭和39年、財団法人として日本宝くじ協会が発足しました。


その後、年末ジャンボ宝くじに代表される開封くじや、スクラッチ式宝くじの様な
被封くじ、ナンバーズの様な数字選択式の宝くじが出ており、「夢を与える」という
事で、今日も誰かが、宝くじ売り場に「夢を買い」に出かけているのです。

宝くじの歴史 2

御富くじの仕組みとその後。


幕府公認となったいわゆる「御富くじ」

特に、「江戸の三富」として有名だったのは、

谷中の感応寺、

目黒の瀧泉寺、

文京区にある湯島天神

この三社の御免富でした。


抽選方法としては、それ程変らず始めに、大きな箱に、
札の数と同数の、番号を記入した木札を入れました。


続いて箱を回転させ、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決めます。
そして当選番号の木札のの所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する・・・という仕組みです。


一等は1000両というのもあったのですから、江戸の庶民の方々が熱狂するのも無理は無いですね。


ただ、1000両当たったからといって、全額貰える訳ではなかった様です。

寺社修理料100両→興行主に

礼金100両→札屋に

その他諸費→約50両程

・・・なので、実質的には700両程だったとか。


この様な手法でおおいに人気のあった富くじですが、やがて幕府により規制がかかる事になります。


松平定信は、富くじを江戸・京都・大阪の大都市に限定しました。
また毎月興行の分を1年3回とするなどの規制をかけました。


文化・文政の頃が最盛期で、上記に挙げた大都市以外でも手広く行われていたのですが、
その後水野忠邦による天保13年(1842年)の「天保の改革」によって一切禁止。


明治になってからも、明治元年(1868年)の「太政官布告」によって、禁止されたので
何と103年もの長い間、日本では「富くじ」は販売されなかったのです。

宝くじの歴史 1

宝くじはいつから始まったか

日本では、昔は、宝くじの事を「富くじ」と呼んでいました。

時代劇をTVで見たことある方なら、「ああそういえば聞いた事あるわ」と思うはず。


さて、この「富くじ」の起源ですが、約380年前の江戸時代初期に、
現在の大阪府にある瀧安寺で、行われた様です。

どんな仕組みかというと・・・・・・


正月の元旦から7日までのお寺の参拝客が、自分の名前を書いた木札を唐びつの中に入れます。

そして7日の日に寺僧がキリで、唐びつの中を3回突きます。

キリの先端についた3枚の木札・・つまり3人の当選者がこれで選ばれて、、
ご利益のある「お守り」が授かれる・・・・・という仕組みです。

キリが機械に、木札が番号にという事で、原理は現代と変っていませんね。


この様に、当初は当選品はご利益のあるお守りでしたが、
それが次第に金銭へと変っていった様です。

金銭と結びついた「富くじ」は次第に熱を帯びてきました。

徳川幕府は、1692年に富くじの禁令を出したほどです。

しかし富くじに集まる金額は無視出来なかったのでしょう、幕府は、寺社にだけは、お寺の修復費用を調達する一つの方法として、「富くじ」の発売を許可しました。「御免富」というのがそれです。

今でいう政府公認のギャンブルといった処ですね。